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2006年04月12日
塩江温泉の歴史
                                     "塩江"の由来

塩江は古くは”潮江”とも書き、”江”は井のあて字であろうといわれる。井は温泉をさしており、温泉の水が普通の水の味と異なっていて、”しおはゆい”ので潮または塩の字を用いたものであるという。
温泉の由来は明らかではなく、江戸時代中期頃に書かれた『安原古跡物語』の「塩江畧縁起」には、天平年間(729〜748)僧行基菩薩がこの地に来た時、湿疹にかかり、さまざまの治療をし、神仏にも祈ったがその効がなかった。その時一人の聖がきて、自分もハンセン氏病を病んで困っているが、不思議の霊水があることを知ったので、そこへ行って浸るようにと行基菩薩を案内して、岩部の奥へ行き、4〜5町先の川辺にある霊水に浴せよといって消えうせた。行基菩薩は尋ね行って潮のさしひきのある江(井の意味)の水に浸ったところ、全快したのでその聖を聖権現と祭った。その後年月を経て知る人もなかった・・・・・・・・と書かれている。
これはもちろん伝説であって、諸所の温泉にある伝説と同じものである。行基菩薩の出た8世紀頃から出ていたかどうかはこの伝説では明らかではなく、ただ古い時代から出ていたことを伝えているものである。文政4年(1821)10月に写した『安原記(安原村塩井記)』の「塩之井畧縁起」にも同じ伝えを記している。

江戸時代の塩江温泉

『安原古跡物語』にはなお、江戸時代初期の承応年間(1652〜54)肥後国(熊本県)阿蘇郡大井村の菊池四郎太夫が、ハンセン氏病にかかり苦しんでいたが、近くの行基菩薩彫刻の薬師如来に37日祈願していると、夢告げがあり、それによって讃岐国井原庄にきて、川に沿って諸所を尋ね求めるうち、塩江の水中に光明が輝き潮のように満干がある江があったので、17日入浴したところ全快した。その後、度々の洪水で井は埋もれて知る人もなくなった・・・・・・・・とある。
この話も伝説であるが、江戸時代のはじめごろには、温泉がしだいに近郊の人々に知られるようになったことを物語るものであろう。
延亨年間(1744〜47)に記された『三代物語』に「潮江 昔温泉あり而今亡ぶ」とあり、『翁嫗夜話』には「潮江 温泉あり浴すれば病を治す」とあって、療養のため入湯することが四方に知られていたが、「今亡ぶ」とあるように入浴するものも少なく、微々たるものであったらしい。
森東溟大川郡引田の人で谷文晁に学び、絵をもって高松藩に仕えた人、天保14年8月72歳で没した)の描いた「東讃名所」と題する絵(一巻)には「塩江湯壷之図」があり、白纓の滝の東方川の流れに接して、低い石囲いがあり「湯壷」と記している。その前に板二枚を渡した低い橋があり、湯壷のところから一段上に道が東西に通じ、白纓の滝の前に今のような橋がかかっており、薬師堂はなかったらしく描かれていない。当時は近くの農家で田畑の耕作の傍ら、この湯壷の水を汲み帰って家庭用の風呂桶に入れて沸かし、浴客に入浴させ、求めに応じて食事や宿泊の世話もしていたが、自炊する人もあったという状況であった。

天保14年の湯元の争い

塩江温泉の湯壷付近の耕地は、江戸時代には椛川の和泉慶吾の所有地であったが、湯壷はその地先の川端であり、所有者のない公有の川原であった。ところが、入湯客が増ししだいに競争が激しくなった天保14年(1843)に、湯元についての争いが起こった。事の起こりはこの地の組頭宇右衛門が湯壷の所に、湯元久八(宇右衛門と久八との関係は明らかではない)と書いた立て札を立て、この場が同人所有のようにしたところ、他の家々からどの家のものでもなく平等な使用権があり、久八が湯元とはいえないと反対し、争いとなったのであった。大庄屋別所氏の命令で立て札は取り除かれ、今後争いが続くようであれば、お取り上げになるかもしれないから今まで通り仲良くするよう、仰せ渡され書が出された。
こうして、湯元の立て札は取り除けたが、宇右衛門はその時、屋敷内に湯元久八と彫り付けた石灯籠を立て、自分の屋敷内だからと取り除かなかったので、近所の人がそれも取り除くよう大庄屋に願い出た。宇右衛門は願い出に対する答弁書を差し出したが、また争いを繰り返すことのないよう大庄屋の説諭で、石灯籠も取り除き、答弁書も取り下げ、他の百姓たちも今後湯元とはいわず以前のとおり仲良くし、なんら申し出ないと双方から一札を差し出させて解決している。

明治・大正期

明治中頃の状況は、廣井汲の『讃岐名勝地誌』また香川県内務部第四課編の『讃岐案内』によれば、浴舎は多い時は大小20数軒あったが、大きいものは松本屋(丸五ともいう、坂東氏)、山上(やまじょう、別所氏)、井筒屋(藤澤氏)、丸久(鍋田氏)、篝屋、少し遅れて井筒屋の新家が営業をはじめた。なお、古老の記憶によると、入湯客が多くなるにつれて、付近の民家が内湯を沸かし入湯客を安い宿泊料(布団などを持参すれば宿泊代2銭)で宿泊させていた。入湯客は東讃に多く、その経路は植田・菅沢(現在の高松市)・生山を通り、不動の滝を経てきていたようである。
明治の終わりごろ、村内の有志が共同で塩江温泉会社を作り、現在の温泉場の西北、旧県道沿いに約250平方辰瞭鶻建て温泉浴場を建てた。2階には休憩室もあって、初めての公衆浴場として相当の浴客を集めていたが長続きせず、明治44年(1911)温泉場は閉鎖された。
しかし、せっかくできていた温泉場がなくなるのは、塩江温泉の将来のためにも好ましくないという意見が出て、村営温泉場を作る議が起こり、明治44年2月14日香東川南岸の現在地に工費1600円、建坪132平方辰陵畩譴鮨恵曚靴拭このことが明治43年6月22日の『香川新報』(『四国新聞』の前身)に次のように書かれている。
〜塩江鉱泉改善準備〜
香川郡安原塩の江の鉱泉は従来は個人経営なりしに依り、設備上欠くるところあり、同村長始め村の重なる有志之を遺憾とし今回村事業とし経費1,000円を投じて建物、浴槽その他全部改築すると共に娯楽場をも設けて面目を一新せんものと目下それへ準備中なりと。

一方、大正12年(1923)7月、香徳自動車株式会社経営の旅館および温泉場が旧温泉入り口付近に建てられ、村と代表取締役日下音吉との間に鉱泉使用の契約が結ばれた。この温泉と道路を隔てて東側に洋風2階建ての食堂も建てられ、付近一帯は温泉地としての雰囲気を作って、一時観光客を集めていたが長続きしなかった。

昭和初期(ガソリンカーと少女歌劇)

昭和初年、有志によって塩江温泉鉄道株式会社が資本金75万円で創立され、昭和3年(1928)工事に着手、昭和4年11月12日琴平電鉄仏生山駅から塩江までガソリンカーの営業をはじめた(運賃は仏生山〜塩江間40銭)。この鉄道は以後、約12年間営業が続けられ、塩江温泉の観光開発に大きな役割を果たした。
この温泉鉄道開通と並行して、新しく旅館花屋直営の温泉場が花屋旅館の東隣に建ち、観光塩江に異彩をそえた。この建物は洋風2階建てで、当時としてはモダンな建物であった。1階には浴場、休憩室、売店、遊技場、理髪店などがあり、2階には演劇場も作られ、温泉専属の少女歌劇が数年間にわたり年中無休で開演され「讃岐の宝塚」と宣伝して浴客の人気を集めていた。
また、その頃のこの温泉場周辺で菊人形展および菊花展が盛大に行なわれた。これに刺激されて塩江地区を中心に鑑賞用菊の栽培が盛んであった。それ以後、この温泉を「新温泉」、在来の温泉を「旧温泉」と呼んでいた。旧温泉一帯の地はガソリンカー開通と同時に、土地所有者に返し、その後間もなく村有であった温泉建物も売り払った。その後、温泉経営者が地区の旅館業者に委託して細々と営業を続けていた。
浴場西側の谷間に白纓の滝がある(纓はエイとも読み、冠の結び組の意味である)。これは黒い岩肌に細い滝の流れが白い紐のように流れ落ちているところから名付けられたものと思われる。滝付近の岩の上に噴水塔が作られ一層涼味を増していた。この噴水塔は、明治35年高松市で開かれた第8回関西府県連合会共進会施設品の払い下げを受けたもので、冬は大きな氷柱ができ、温泉名物の1つとなっていたが、昭和12年軍需品として供出してその姿を消した。

温泉の泉質は、香川県衛生研究所の検査によると次のとおりである。
(1kg中のmg)
カリウムイオン0.9
ナトリウムイオン180.9
硫酸イオン20.6
カルシウムイオン20.2
マグネシウムイオン2.3
クロルイオン233.3
弗素イオン6.7
ヒドロ硫酸イオン105.2
メタケイ酸25.2
遊離硫化水素4.2
遊離炭酸25.0
この成分から考えて、次の病気に効能があるとされている。
慢性関節リューマチ、慢性筋肉リューマチ、神経痛、神経炎、梅毒、糖尿病、心臓弁膜症、慢性婦人性疾患、慢性金属中毒症他

効能の多いことが近郊へ知れわたっていたためか、明治27、8年日清戦争の傷病者約50人が転地療養にきていた。また、太平洋戦争中の昭和18年8月2日には旅館花屋が県の管轄となり「健民修練所」として体質の弱い青年を集め修練が行なわれていた。昭和21年、村内各種団体関係者がこの健民修練所の処置および観光塩江の将来について相談した結果、花屋旅館を復活し、塩江温泉の伝統を生かして、観光による塩江の発展を図ることに意見の一致をみた。しかし、戦後の混乱のためしばらくは観光施設も整わず、戦前に比べて大きな見劣りがしたが、その後社会情勢が落ち着いてくるにつれ、観光ブームの波に乗って観光客はしだいに多くなった。なお、鉱泉水および付近一帯を再び村が20年の期限で借り受け、民間人に貸して経営することになった。
温泉場から南へ約500鍛間を進むと塩谷地区があり、奥塩江と名付け、昭和39年頃から開発され俗塵を避けた別天地して年とともに開けてきた。